●ネットの自由度
この記事でもご紹介したことのある、PCを使った無料のインターネット電話である「Skype」は中国とメキシコでは使えません。
中国は国際電話会社が国営であるため、民間にこういった「無料のもの」を使わせない、という方針なのだということです。また、メキシコでは、国の方策として、従来の仕組みを大幅に壊すような仕組みは使えない、ということのようです。
さらに、中国でGoogleを使うと、特定の検索結果が表示されない、という「問題」もあるとのことです。これはGoogle社が中国政府の意向を受け、各国での対応を、各国ごとに行う、ということをしているからです。
また、多くの企業では、アダルト系のコンテンツなど、問題のあるコンテンツを閲覧できないようにするか、就業時間中にどのホームページに行ったか、メールに問題のあるキーワードが入っていないか、などを調べるツールをシステム管理者が使っているところも大変に多くなりました。
●情報を遮断する側とされる側
インターネットというキーワードを離れて、大きな目で見ると、これらの「検閲」や「制限」は、要するに「情報の遮断」ということです。そして、この情報の遮断をする主体は、2つあります。つまり、「自分自身(見たくない、という場合)」と、その人が属している「人間の集まり(見せたくない、という場合)」です。もっとも、情報の遮断を行う側と、それを行われる側に、「同意」がある場合は、なにも問題がありません。たとえば、アダルトコンテンツを家庭とか学校に持ち込みたくない、という「情報を遮断される側のニーズ」と、システム管理者や会社などのニーズが一致している場合などはそれにあたるでしょう。
問題は、情報を遮断する側と、情報を遮断される側の利害が一致しない場合です。たとえば、私はSlashdotという技術者の雑談サイトをよく利用しています。技術系の情報の速さや、その情報に対する本当に専門を持っている人間のコメントなどは非常に役に立つからです。しかし、このサイトの閲覧を遮断している会社もあると聞きます。
遮断している会社側の理由は不明ですが、おそらく「自社の技術情報が漏れる」などの危惧がある、というのが大きな理由のようです。しかし、技術は外部との接触で切磋琢磨され高度になっていく、という面も否定できず、その機会を経営者の理屈で奪うことは、技術という経営資源の先細りを招くことにもなり、やはり賛否両論があるものと思います。
●個人の説明責任
特に、昨今では説明責任というものが多く問われる世の中になりました。特に責任ある立場にいる人ほど、自分のしたことがどのような原理にもとずき、どういう判断で行ったか、ということを、きちんと外に説明する必要が生じています。そのため、こういった検閲に対しても、非常に慎重な対応をする会社もまた、たくさんあります。また、この説明責任は個人にもおよびます。なぜ就業中に、ショッピングサイトに行ったのか?などの行動は厳しく監視され、かつ、説明を求められます。
特に最近のこういった世の中では、ネットの検閲などの問題は、利害の対立で語られ、当事者どうしの利害に話が集中してしまいがちです。実際には、相互理解が必要な場面で、対立が強調されることも多く、問題が紛糾することもあります。たとえば、Web閲覧記録の検閲を行う会社があったとして、閲覧された個人の情報は、プライバシーの問題となるのかどうか?など、さまざまな問題が提起されています。
●社会的モラル
こういった問題が起きた場合は、やはり当事者相互が、お互いの立場に理解を示し、お互いのさまざまな行動に、ある範囲での社会的モラルをそれぞれが尊重して、柔軟に対応をしていくしかありません。すべての行動に杓子定規に規則をあてはめると、実は人間の社会というのは崩壊してしまうこともあるからです。人は単なる「稼ぐ道具」ではなく、感情もあるものですから、ときにはある範囲の中で社会的規則から外れることもあって然るべきと思います。
規則が多く作られ、秩序のある社会が進むと、こういった、ある意味人のこころの「闇の世界」が縮小され、人間は普通「閉塞感」を持つものです。ネットの検閲などの問題も「問題が起きたときの資料とする」という程度であれば、通常は問題はないのですが、それを人事考課の資料にする、という会社もあると聞きます。しかし、昔から、優れた経営者や政治家と言われている人たちは、いずれも規則だけをふりかざして杓子定規な考えをする人ではなかった、ということからもわかる通り、円滑な事業の運営には、こういった人間的な側面を見逃してはいけない、ということもあるのです。
ネットの検閲、という問題は単純ではなく、多くの問題を含んでいますが、「検閲される側」と「検閲する側」の同意を得てこれらのことは行われるべきです。そうしないと、これが見える面、見えない面の両面であらゆる問題の火種になりかねないからです。
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