●ネチケット
インターネット上での「マナー」というのは、いろいろなところで議論されています。名前も「ネットのエチケット」という意味で「ネチケット」などのことばがよく使われています。
たとえば、メールを出すときの形式とか、掲示板で議論になったときはどうするか、などは、トラブルを実際に経験された方も多いと思います。原因は自分がメールなどの仕組みをよく理解していないことだったり、あるいは、他の人がそうであったり、など、さまざまでしょう。
●ミュージック・バトン
しかし、この前私が遭遇したケースは、ちょっと特殊でした。いま、SNSのシステムやblogで「不幸の手紙」方式で広まろうとしている「ミュージック・バトン」というものがあります。つまり、自分の好みのCDは?とか、好きなアーティストは?とか、そういういくつかの質問に答えてください、そして、答えたあとは同じ質問を、他の5名の人に出してください、というものです。
他愛がないものなのですが、不幸の手紙のように「脅し」みたいないやな要素がありません。
また、単に遊びなので、無視する人は無視してもかまいませんよ、という程度のものだと思って、「無視したければすればいいと思います。音楽そのものが好きではない、という人もいるでしょうから」と、掲示板に私が書いたところ、なんと「反論」をいただいてしまいました。
「おまえは場の雰囲気が読めない。読む勉強をしたほうがいい」というような内容で、それも何度もしつこく言ってくるのには閉口してしまいました。
その態度が非常に気になったので、さらにお話を聞いて見ても、同じような内容の答えしか返ってきません。「いや、ぼくはその場の雰囲気はわかっていて、あえて壊すようなこともしますよ。議論を深めるために必要、と感じたときは」などのことを言っても、「あなたはわかっていない」という、どこか子供のけんかのようになってきてしまい、私は途中で反論するのを止めました。
●面白いということ
自分が面白くない、と思うことを面白くない、とはっきり言ってなにが悪いのかな?
仕事の上のことでもなく、あくまで利害関係のない遊びの上での話だし、と思っていたら、思い出したことがあります。
もう20年ほど前ですが、インターネットなどはまだ影も形もなかったころ、テレビのCMで、牛に向かって「人間だったらよかったのにね」というようなセンテンスがあったのです。
このコピーを考えたのは、当時のCMのコピーでは有名な「川崎徹」という人でした。この人のコピーは「面白い」ものとして有名でしたが、やはりいくつかの雑誌で「あれのどこが面白いのだ?」という人たちもたくさん出てきました。これを面白い、という人は「若者文化がわからなければ、この面白さはわからない(つまり、面白くないというのは精神が若くない証拠だ)」と反論していました。
●ことばの解釈
物事の表現としての「ことば」は、それを発する人の意図とは関係なく、それを聞く人の立場によって、まったく違うように解釈されることがあります。
文章を書く、ということ、ましてや活字になる文章を書く人は、そういうことを特に気をつけて文章を書いていた時代です。たとえば「人間だったらよかったのにね」ということばが、たとえば普段から自分は人間扱いされていない、と感じている人たちには、やはり違うように聞こえると思うのです。つまり、公に発せられることばは、ことばだけが独り歩きをすることを考慮に入れて、わかる人間だけわかっていればいい、というようなことが無いよう、細心の注意を払って書く必要があることが、文章を書く人間のほとんどに、必要とみなされていました。
●文章を書く人の常識
しかし、ネットの時代、blogの時代、そして包括的検索エンジンの時代、言い換えれば「貧者のマスコミの時代」になった今、文章はちょっとblogに書くだけで、それが誰の目にも止まるようになってしまいました。つまり、文章などでの表現をする人間の数が増えただけではなく、その流れの中で、前の時代にはあった「文章を書く人間の常識」といったものが、やはり忘れられたように思います。もちろん、そういう制限がないから、自由気ままに書ける、ということも、もちろん言えるでしょう。
そうは言うものの、表現とは人間対人間で行われるものである、ということには変わりがありません。読んでくれる方への礼儀や敬意というものを抜きにして、やはり文章を書くことはできません。ときには、わざとそこから外れて表現をする、という「アクロバット」ももちろんありだと思いますが、あくまで、そういうことをすべてわかった上で行うことではないでしょうか。
●気分のファシズム
ネットのマナー、とは言うけれども、blogの時代でも基本はやはり、そういうことなのではないか?と、最近は考えています。そういう意味で、この前のミュージック・バトンに関する議論は、「わからないやつはだめだ」という、他人への敬意や想像力を欠いたものであって、それを自覚していない人たちが増えたのだな、ということがわかり、実は少々戦慄をしました。なぜならば、20年前の、その「若者文化の共同体という押し付け」は「気分のファシズム」あるいは「気分のテロル(テロリズム)」と呼ばれていたからです。違う意見は「違う意見」ではなく、「奇人変人」の類であり、なにがあっても、受け入れられない、という、拒否の態度が、そのときのそれとまったく重なったものだったからです。
「いいじゃないか、違う意見の人がいても」と、いうことを許せない、という社会は、それを「テロ」だとは言わないまでも、やはり不健全な社会であるように、私には思えます。
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