●ネットにはないものがある
ところで、ネットサーフィンをする、というような表現をわざわざ使うことがなくても、Googleのような検索エンジンの使い方を知らない人は、いまやいないと思います。しかし、検索エンジンも万能ではありません。検索エンジンにひっかからないページというものが当然あるのです。
●プライベートなWebページ
まず筆頭に上げられるのが、プライベートなWebページやBlogなどでしょう。
これらのページは、検索エンジンを回避するコードが中にあり、特定のページが検索エンジンにひっかからないようになっています。これは、あるファイルを、ある形式で書いてサーバ内に置いておくと、検索エンジンがそのファイルをみつけて、その記述に従って検索対象からはずす、ということを行っているためです。もちろん、Googleもその例外ではありません。
●歴史的にWebの前にあったもの
歴史的にWeb以前にあった事柄や、Web以前のPC業界のことなどは、あまりネット上に情報として載りません。世の中で行われていた議論、たとえば、「放送とネットの融合」なんてものは、実はかなり前から議論されてきたものです。
しかし、ネットサーフィンしていると、そういう議論がたしかにあったはずなのに、過去のその議論を見ることができなかったりします。歴史的な記録に大々的に載るもの以外は、過去にあった大議論の渦などの記録は、ネット上にあまりありません。
●ネット上にないからといって
ということで、ネット上にないからといって「世の中にない」ということではない、ということは覚えておいたほうがいいと思います。特に、最近は「ネット上にそんな記録はない」とGoogleの検索結果を示して、「だからあんたの言ってることはウソだ」みたいな言い方をする人がいて、思わず苦笑するような場面も多く見るようになりました。
ネットにないものは世界に無い、というその断定もすごいと思いますが、逆に言えば、それだけ、ネットというものが浸透してきたのだな、とも感じます。
●「ネットを捨てよ、街に出よう」
というようなパロディも、わかる人にはわかるけれど、わからない人には解説つきでないとわかりませんね。
これは、詩人の寺山修司の著書「書を捨てよ、町へ出よう」という、1960年代、1970年代の若者のあいだでは知らない人のない、といわれている書名のパロディです。
こういうことは、パロディとして使われていても、検索結果がもちろんまともに表示されませんから、それがパロディとわかるには時間がかかります。もっとも、これがウケる世代は、もうおじいさんになりかかっています。しかし、この日本ではまだまだ元気な世代で、おそるおそる、部下に隠れて自宅でネットサーフィンなんかしている世代であることもたしかです。幸いにして、私はその世代の後の世代ではあるのですが。
●100人の村
ちょっと前「世界がもし100人の村だったら」というものが流行ったことがありました。その中で、ネットを使う人は100人に一人、ということが言われていたと思います。
つまり、ネットはその程度の人々しか使っていなのだから、人類の持つ情報の1/100くらいしかそこには入っていない、とも言えるのかも知れません。ですから、検索結果にない、ということがそのまま世の中にない、ということではない、ということくらい、常識でわかりそうなものです。
ネットを使うにも「論理的思考」だけではなく、「常識」が必要なのです。
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