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第26回 Blogに見るデジタルデバイド
 

 

●Blogの効用

  もうこのコラムをお送りする時点では「blog(ブログ)」は、当たり前の用語になっていて、ものめずらしいものではなくなっていると思います。
  blobとは、「Web Log」の略で、自分の書いた文章をWeb上で「発表」でき、その記事に対するコメントや、外の人の同じ形式のblogへのリンクを好き勝手に張ることができます。今までの掲示板では、リンクの機能に制限があったり、文章の容量に制限があったり、また、文章が自分のページに書かれるわけではないので、遠慮があったりして書けなかったことが、blogでは「自分のもの」として、自由に書けます。もっとも、blogは流行のしすぎで、誰もコメントをつけないような人気のないblogもまた、多数存在しています。

  一方で、マスコミですでに有名になった人たちのblogには、多くのコメント等が集まっています。「誰でも言いたいことが言える」というようりも、有名な人をもっと有名にして、無名な人にはなにもない、という状況をさらに拡大する道具にも、blogは見えます。しかしまた一方で、blogの存在は、個人の「主張」ができる場をさらに広げた、という功績も小さくはない、と言われています。

●Blog事件

  そのblog上の「事件」もあちこちで起きています。最近、私が注目しているのは、共同通信社の記者である小池氏、伊藤氏のはじめた「記者の記名でのblog」です。
  このblogで小池氏は個人的な記事を多く載せています。その中に、近鉄バファローズの買収問題などで話題になったLive Doorの、堀江社長のblogに対する小池氏の意見が表明されています。
  小池氏は堀江氏のblogの内容を見て、その文章の最後を「若い人はこういう人にだまされてはいけない」と、結んでいます。これに対し、堀江氏を信奉する多くの人たち(もちろん、そうでない人も含まれる)が、小池氏のその意見を読んで「謝れ」「バカじゃないのか」といった暴言を含む多くのコメントを寄せています。
  そのコメントの数は、それまでのコメントの数よりもさらに多くなっています。もちろん、このページを見るだけ、というアクセスも相当数上がっているはずです。この小池氏を攻撃するコメントの群れは、1週間たってもやまず、blog界ではかなりの反響を呼んでいると言っても良いと思います。

●書くちからと読むちから

  小池氏は当然のことだが、ふだんから文章というものを多く扱う、いわば「文章のプロ」です。そのプロである小池氏のいるところは「社団法人共同通信」という、特殊法人です。つまり、小池氏は共同通信社の名前を背中に背負い、その中で数十年も記者生活をしている人、ということになります。どういう書き方で問題が起き、どういう書き方ならば問題が起きないか、ということは、十分過ぎるほど承知している、という立場の人のはずです。そういう小池氏のblogの内容は、私が見ても「常識的」ですし、決して、その枠を逸脱しているものではない、と私は思います。

  私もまた、これまでに多くの書籍を書いてきましたし、多くの記事を書いてきましたから、そういう経験は豊富です。そういう私もまた、今回の小池氏の文章は、特に問題はない、そう断言してよいと思います。しかし、今回の問題は、小池氏の書いた文章の内容にあるのではないようです。小池氏への攻撃をしてきた人にとっては、小池氏の書いた文章は全体の印象として「堀江氏への攻撃」と見られているようなのです、内容がいくらしっかりしているものでも、それを読むほうは、単純化して「見る」ことになります。まさに「読む」のではなく「見る」という感じです。もっと簡単に言えば、小池氏への攻撃をしてきた側は、「ダメージを受けた」という一点だけを見ているのでしょう。要するに、読む側に「批判」と「個人的感想」を分け隔てることができるような、ある意味文章の読み書きをするプロとしては当然の常識がないので、書き手の書いていることとは違う捕らえ方を、読み手にされてしまいます。これは、デジタル媒体を通した文章の時代である今を象徴する出来事に、私は思えます。言い方を変えれば、これは「デジタルデバイド」の狭間に落とされた爆弾、ともいえるでしょう。

●痛い!の瞬間

  子供のころ、誰しも友達とけんかをしたことがあると思います。子供はむらむらとしてきたら、自分も周りも、また、これからどうなるかも考えずに、けんかの相手を攻撃します。もちろん、思慮などというものはありませんから、自分のどこが悪かったのか、という思いに至ることもなく、けんかが始まってしまいます。攻撃を最初に受けたほうは、「なぜ自分が攻撃をされるのか?」ということを深く考えず、相手の攻撃を誘発するようなことをしていたりします。

  文章を書くことを職業とする人間は、ちゃんとした取材とか論理攻勢などを下敷きにした「批判」と、自分の経験などから生まれる「感想」をちゃんと分けて書く術を心得ていることが普通です。実際、今回の小池氏の文章はそういう内容ですし、そこでは彼は「感想」を書いているだけで、批判はしていません。
  しかし、文章の論理に疎い現代人の多くはこういった論理的思考は得意ではないのではないでしょうか?批判も感想もいっしょくたにして、「攻撃された」と感じてしまうのではないでしょうか?つまり、文章を読む側は、それを書く側と同じトレーニングを受けたわけではなく、また、文章を冷静に読み、物事を判断する知性が足りない、ということもあるのです。これが、この日本のネットをとりまく「文章」の現状なのかもしれません。
  ふつう、批判された側は、それを検証して、悪いところは正す、ということもやぶさかではないはずです。批判とは感情を下敷きにしたものではないものだからです。だからこそ、他人を批判するときは、十分な調査が下敷きにならなければなりません。しかし、ここで書かれたことは批判ではなく、小池氏の感想が述べられているだけです。ですから、その感想を面白くない、と思えば「その感想は私の感想とは違う」ということは言えても、「謝れ」とまでは普通は言えないものですね。でも、そういう常識とはおかまいなしに、「攻撃」が始まってしまう。これはある意味異常なことに見えなくもありません。

●「攻撃」と「批判」のいあいだ

  「批判」も「否定的感想」も、いっしょくたにして「攻撃」と捉えてしまう人たちが多くいる、というのがネットの現状です。このレベルを作っているのは、現代の教育であり、ネットです。これは、子供たちにまともに文章の教育をしてこなかった現代日本が背負ったツケの1つではないか、と私は思います。
  今回の小池氏のblogで起きた事件は、ネット上での「新しきデジタルデバイド」として、姿を見せ始めている現象のごく1つに過ぎないと思います。ネットのあった時代とネットのなかった時代の違いではなく、いまはネットがあるから、たまたまそこに現れた、というだけのことではないでしょうか。「理性」に戻ってものごとを考え「論理」を重要なものとみなさない現代の教育は、情感だけで人が動きます。自分の否定は自分への攻撃以外の何者でもなく、私は常に正しく、自分を攻撃する人間はすべて間違っている。というナルシシズム。こういったところに人々が流れれば、やがて戦前のような大いなるクライシスを私たちは経験することになる可能性さえあります。

  流されないために、本当に自分を大切にするために、論理的思考とまともな文章の教育が、いま、本当に必要なのではないでしょうか。ネット時代には、さらにそれが必須なものとなるように思います。

  ネットの時代。それは垂れ流される感情の洪水としての言葉があふれる時代であって良いはずがありません

 

 
     
   
  ※ここでは、このコラムの著者三田典玄氏が撮影された写真の中から、著者選りすぐりの作品を毎回数点ずつ掲載しています。  
 


汐留の風景1




汐留の風景2